北京留学中、「学生食堂」へ行ってきた。
学生たちが食の跡。
中国の学食は、まさに戦国の合戦直後そのままである。
食べ残された肉片、こぼされたスープ、骨付き肉や川魚の骨が累々と積み重なり、そのまわりには 、辛かったのであろう、輪切られた唐辛子が散らばっていた。
テーブルは「汚い」の一言につきるが心配には及ばない。
食堂のテーブルの天板は、アルミやプラスチックでできている。
だからテーブルにしみ込むこともなく、ひとふきできれいにできる。
ところが、食べ終わった学生たちがそれらを処理することはない。
処理要員がいるのだ。
学生たちが去っていくと、係りの人がテーブルへやってきて、うす灰色の、ふきんなのか雑巾なのか、もはや区別さえつかないボロボロの布で、テーブルに残されたものをふき集める。
それから、あさくて大きなボウルをテーブルのふちにあてがいつつ、残留物をおとすように布でひとふきすれば、テーブルはきれいなる。
そういうシステムはあるものの、食堂は広い。
ましてやお昼時であり、係りの人もお腹がすく。
学生は大勢やってくる。
みんな授業の合間に食堂に来るわけだから、ゆっくり食べて休憩するか、さっさと食べて引き上げる。
テーブルがあけば次のグル―プが流れ込む。
だから、テーブルふきはが遅々として進まず、食堂ピークの時間帯も終わりころになると、先に述べた世界が広がるわけだ。
その中でも、午前の講義が長引いて、あいたテーブルになだれ込むグループになった時がいちばん過酷である。
残留物と油にまみれネチャネチャとしたテーブルでランチをしなければならない。
こんな日々が続くと、はたして残留物の回収システムは本当に必要なのか、という考えにいたった。
つまり、初めからテーブルに何も残さなければいいし、食後に口直しをしたティッシュもテーブルにおくのでなく、各自持ち帰ればテーブルは元のままきれいに保たれるだろうと思うわけである。
なぜそうしないのか。
そうすることで消えてしまう雇用が係りの人の生活をおびやかすからなのか。
中国の学生はそんなことまで考えて、食事をとっているのか。
しかし、これが中国の食堂文化なのだ。
一緒にご飯を食べていた女の子がテーブルに魚の小骨をはき出し、肉の骨を並べ始めたときのわたしの心境をお分りいただけるだろうか。
正直、幻滅を感じてしまうほどであった。
でも、中国の男は彼女たちの行動に違和感を抱かないし、いたって「普通」のことである。
そもそも、骨を皿のすみによけたって、ティッシュを各自持ち帰ったって、誰も何も言ってくれない。
それが、中国なのだから。
わたしたちが皿のすみに小骨をよけるように、彼らだってテーブルの上においておく。それが、習慣なのだから。
同じアジアの国でも、まったく異質な文化・習慣である。
違いを好き嫌いで判断するのではなく、違いに腹を立てなくなること、違いにうまく順応していくことができるのが、異文化理解のできる真の国際人なのかもしれない。