北京留学中、「日中友好病院」へ行ってきた。
とにかく不安だった。
ただでさえ不便な外国生活である。
病院での苦労は目に見えていた。
だからといって、我慢するにはあまりにもひどく、のっぴきならない事態にあった。
指がはれてきたのだ。
ある日、右手中指の第一関節、ちょうど人差し指のツメのとなりが赤みがかってみえた。
「なんだろうか」とおもうも束の間、その赤みは勢力を広げてきた。
指先を圧迫し、指がまがらなくなるまでに、そう時間はかからなかった。
「?!」。
ウィルスでも入ったのだろうか?
まったく心当たりがない。
熱をおび、頭までクラクラしてくる。
痛い…。
まがらない、指がまがらない。
えらい。
かなわず、病院へ急いだ。
事情が事情だからと、ひとりで飛び込んだ。
先生も、クラスメートも授業中である。
勝手もわからないまま、日中友好病院の国際医療部へ行った。
受付をすませると、日本語のわかるドクターを手配するからと、待たされた。
かべには時計がかけられ、電光掲示板がドクターごとの料金を示す。
予想外にきれいな院内で、幅広のソファーと観葉植物が置かれていた。
もちろんそれを楽しむ余裕はない。
お寺の鐘の音のようにもどかしく進む秒針を眺めているうちに、看護師がやってきた。
「アナタノ番デスヨ。私ハ日本語ヲ話シマス。大丈夫デスカ?先生ノトコロへ。」
そのとき、ようやくドクターがついて、看護師が案内してくれた。
ぼーっとしたまま、先ほどの質問に「大丈夫です」とこたえた。
すると、てっきりそのままついてくるとおもっていた看護師が、「ジャアネ」といって去ってしまったではないか。
その上、このドクターが日本語を話さないのである。
いや、話せないようだ。
泣き面にハチである。
名札を見ると「乳腺科医」。
「こいつにオレの指が治せるのか?!」と不信感がわき上がってきた。
「どこが調子悪いの?」とドクター孫(ソン)が尋ねてきた。
わたしは指がはれて痛い旨を声高らかに伝える。
伝える努力はしているが、伝わっているのか、はなはだ怪しい。
カタコトの話はどうにか理解してもらえたらしい。
ドクターは処置について話し始めた。
切断されたり、神経をなくされたりしてはたまらないと、脳のCPUを高速回転させて、一字でも聞きもらすまいと耳をすます。
なにやら「注射をして、指を切開して、ウミを取り出す」といっているようだ。
「麻酔」は、日本語の発音に似ていることが幸いして、どうにか意図がつかめた。
処置室にうつった。
体内にメスが入るのは、わたし史上初の出来事だった。
今、棚からおもむろに出してきた器具一式、ちゃんと消毒されてなくて症状が悪化したら…。
ドクターが「ごめんね、手が滑った」といって指の血が止まらなくなったら…。
こんな被害妄想を一通りせずにはいられなかった。
お国柄も多少、わが妄想に影響を与えたかもしれない。
麻酔を第二関節の少し上に打たれた。
ほどなくして、指はパンパンになり、ドクターにはじかれても、自分の中指だけがゴムになってしまったように感覚がなくなった。
そうなればいよいよ、メスの登場である。
ドクターのメスさばきは、まるで如意棒を操るがごとく鮮やかだった。
処置のほとんどは、患部のまわりを押してウミをおしだすことにすぎない。
かくして、ウミを出されたわたしは、ぶじに寮へ生還したのである。
処置後に、当分は1日3度指を浸すようにと、消毒のビンを処方された。
2度目以降にビンの中に指をつっこむときは、指の皮やほこりが浮かんでいる。
わたしたち日本人なら、衛生観念を疑ってしかるべき状況にあった。
しかし、切開時に、人生で最多の手汗量を記録するほどの恐怖を経験した者にとってはとるに足りないことだった。
そのまま数日のあいだ消毒をつづけていると、不思議なことになぞの指の腫れは完治するにいたった。