北京留学中、「おごられ」まくってきた。
異国の習慣はしっくりこない。
違和感の背景を追求して腹を立てるより、「そういうものだ」と理解して寛容な気持ちで違いをおもしろがる方が、ホームシックになりにくい。
違和感だらけの中国生活のなかで、一番しっくりきたのは、「おごり」の文化である。
例えば、あなたが中国人と知り合ったとしよう。
知人の紹介でも、あるイベントに参加したもの同士でも構わない。
何らかのきっかけで話し始めて、ちょっと話が盛り上がると、その日か、近いうちにご飯でも食べに行かないかとなる。
こうなればしめたもの。
たいていは、おごってくれる。
おごってくれると分かればニヤニヤが止まらない。
本来は、「おごり、おごられる」習慣。
中国人同士だと、「ご飯に行こうといった人がおごる」とか、「おごられたらおごり返さなければならない」といったルールがある。
その上、「お返しにおごるときはあまりにすぐだとよそよそしいから、ほどよい期間をあけてから」と明文化されていないきまりまであるそうだ。
そんな感覚、外国人には簡単にわからないぞ。
最近は残念なことに、中国4,000年で最高のこの習慣が失われつつある。
若い世代では割り勘(AA制)が当たり前になってきているそうだ。
それでも、外国人のためだろうか、初めて会った時や1回目の食事だと大抵ご馳走になれる。
「外賓(外国のお客さま)」でよかった。
中国人以外として、この世に生を受けたことを神に感謝した。
「おごられる」というのは、中国に住んでいて、中国語が上達する以上にうれしいことなのだ。
この素晴らしい習慣を後世に残すためにも、わたしはできる限り中国の友達を訪ねて、おごってもらおうと思っている。
わたしは、会計の際、おごってもらえると確信していても欠かさず財布を取り出してきた。
ここは出すよと言われても、お札に手をかける。
おごるからとか、次でいいよと言われてやっと、申し訳なさそうに頭を下げながら感謝する。
(ちなみに、「次」はない。「次」もまたおごってくれるからだ。)
感謝の気持ちを表す方が、「おごってくれて当たり前」という雰囲気を感じ取られず、
「次」につながりやすい。
外国での生活だから、誰も気にかけないのに、ついついザ・日本人を演出するわたしがいる。
始終ニヤニヤしているのに、それを押し殺そうと努めている。
口元のほころび、鼻口の膨張、瞳の奥のキラキラ。
すべて悟られないように隠し通している。
わたしは中国の「食」をおおいに享受した。
尊敬すべき中国の習慣の発見に、喜びをかみしめていたのだ。
ところが帰国してからおもわぬ副作用がでてきた。
日本人はケチで、だれもがわたしに割り勘を強要してくるということである。